ひろつかさ、本を読む。

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『関ケ原 下』

 

関ヶ原〈下〉 (新潮文庫)

関ヶ原〈下〉 (新潮文庫)

 

 

さて、関ケ原下巻。

下巻で個人的に面白いと思ったのは、弱小の大名達が生き残るために東西どちらにつくかで悩みに悩み、知恵を絞った点です。

 

家康は255万石と大名の中の大名で、対する三成も家康よりだいぶ落ちるものの19万石の大名。当然ながら、当時の大名の多くが、三成よりも弱小であった。そんな大名達が生き残るには、強いものにつく他なかった。

 

どちらが勝ってもいいように中立に立てばいいのでは?と一瞬思ったが、『君主論』によれば、中立は最大の悪手と書いていたのを思い出した。苦しいときに助けてくれなかった者を助けようとは思わないので、勝者から良い扱いを受けないからだ。なので、自分の旗色をはっきりさせることが重要なのだとか。

 

本稿では二人の大名の選択をピックアップしたい。

 

 

 

大垣城主・伊藤彦兵衛の選択

伊藤彦兵衛(=伊藤盛正、大垣城3万4000石の大名)

三成は、濃尾平野に展開する合戦の指揮所として大垣城の地の利を理解していた。なので、大垣城主である伊藤彦兵衛に使者を送り、「城を明け渡してほしい」とお願いする。三成としては「秀頼様の御為」という理屈だ。

 

しかし伊藤彦兵衛からすれば、もし三成に城を明け渡せば、西軍が負けた場合、西軍加担の罪は大きく言い逃れすることはできない。

 

ここで伊藤彦兵衛とその家臣が相談を重ね、導き出したのは

「(三成の申し出を)いったん蹴る」という方法だ。

いったん蹴るのである。蹴ればあとで家康への申し開きが立つであろう。が、三成はそれだけでは承知すまい。重ねて強談にくる。そのとき屈服すれば、西軍大勝の場合恩賞は確実だろう。(『関ケ原 下』美濃の城々)

結局、関ケ原の戦い後、改易されるのだが、何とか後世に子孫を残している。乱世を生き抜いただけでも勝ち組ではないでしょうか。

後に関ヶ原本戦にも参加した。戦後、改易され没落した。その後、京都で浪人をしている時、徳川家康に見つかり殺されそうになったところを福島正則の懇願により助けられ、正則の領地・広島で15年程滞在した。合戦から20年後、元和6年(1620)頃、加賀藩へ移り前田利常に仕えている。(伊藤盛正-wikipediaより)

もし、「いったん蹴る」ということをしていなかったら、福島正則が家康に懇願したとしても殺されていたでしょう。

「この一旦断る、やむを得ず要求を呑む」という技を現代にも応用できないかと思った。

 

 

織田秀信の選択

織田秀信も家康から会津征伐の要請を受け、出陣する予定であったが、軍装を整えるのに手間どり、出発が遅れた。その間に三成から「美濃・尾張の2国」という恩賞を条件に、西軍に加担するよう勧誘された。秀信は三成の勧誘を承諾した。

 

家臣たちは家康のほうが勝つと見ていて、西軍加担は反対であったが、秀信は秀吉に良くしてもらった思い出ばかりあり、豊臣には敵対したくなかったようだ。

 

ここで、秀信の家臣たちは京都にいる前田玄以に相談するよう持ち掛ける。

前田玄以と言えば、五奉行の一人である。

(五奉行石田三成長束正家増田長盛浅野長政前田玄以)

秀信は、前田玄以が三成とともに家康討伐の一挙に名を並べている関ケ原主謀者の一人と知っていて、「西軍につかれよ」という言葉を期待していた。

 

しかし、なんと前田玄以は「内府(=徳川家康)にお味方せよ」と言ったのだ。

前田玄以は主謀人の一人だけに西軍不統一の内情を十分に知っており、自らも家康に内通し、戦後の身分の保障を得ようとしていた。

 

秀信は前田玄以の言葉を聞き、青くなった。前田玄以と言えば、本能寺の変の戦火から自分を救い出してくれた命の恩人でもあったのだ。

 

家臣たちは籠城することを勧めた。

籠城ならば野戦と違って人命をあまり損傷せずにすむし、頃合な時期に降伏開城することも容易であった。(『関ケ原 下』渡河)

しかし秀信は家臣たちの籠城策に断固反対。祖父の織田信長も籠城など一切せず、常に外で戦っていた。それが織田家の家法だというのが、秀信の主張だ。

これには家臣たちも言い返しようが無い。織田家家臣なのだから織田家の家法に従うだけだ。

 

結局野戦が始まると東軍に負け、籠城戦になった。

東軍にはかつて岐阜城主であった池田輝政がいたため、籠城戦もむなしく、開城することとなった。

ここで秀信がとった行動がかっこいい。

なんと共に籠城してくれた家臣たちのために感状を書いたのだ。

(感状とは武士の履歴書のようなもので、他家に士官するとき、その感状の内容次第で禄高(給料)が決まる。)

 

左右はおどろき、目の覚めるような思いでこの織田信長の嫡孫である21歳の城主を見た。この落城の間際になって、家臣たちのゆくゆくの身の振り方のための感状を書くというのは、誰にでもできることではないだろう。(『関ケ原 下』奇妙人)

 

多勢に無勢で、数に負ける秀信軍が、東軍に負けたのはある意味当然であるし、本書では派手好みで苦労知らずとして描かれているが、個人的には秀信は名君だったのではないかと思う。

秀信時代の岐阜領内に大規模な一揆や騒動が発生したという記録はなく、また、信長の保護した寺院を引き続いて保護したり、楽市楽座、鵜飼いの保護など信長の政策を踏襲した面も見られ、信長の施政方針を継承して苛政を敷かず、水運の重視など民生や寺社対策に心を配っていたことが窺える。(織田秀信-wikipedia)

尾張・美濃の2国という恩賞のために戦ったのか、豊臣秀頼のために戦ったのかはわからない。だが、織田家としての誇りを持ち、最後まで武将として戦う選択をしたのは確かなはずだ。