ひろつかさ、本を読む。

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『関ケ原 中』

 

関ヶ原〈中〉 (新潮文庫)

関ヶ原〈中〉 (新潮文庫)

 

 

関ケ原の戦いは、「天下分け目の関ケ原」と言われるように、その知名度の高さから知らない人はいないレベルの合戦である。

 

しかしながら、多くの人が関ケ原と聞いてイメージするのは「合戦そのもの」ではないかと思う。この中巻を読んで、合戦の前から戦いは既に始まっていたということがわかった。

 

中巻では、合戦が始まる前の政治的な部分が多かった。

本投稿では、そんな政治的な部分を一つ抜粋しようと思う。

 

 

中でも面白かったのが宇喜多騒動の部分だ。

 

宇喜多秀家・・・備前・美作・備中半国・播州三郡の領国をもつ。57万4000石の大大名。

 

宇喜多家騒動を時系列で簡単にまとめると以下のようになる。

①57万石の大家臣団を統御していくのは、若い秀家には困難だったため、御家の政権のいっさいを筆頭家老の長船紀伊守(おさふね・きいのかみ)という人物にまかせていた。

②しかし、長船は人の好き嫌いが激しかったのと、長期にわたって権力をにぎっていたので、派閥ができた。長船派

③この長船閥をいっそう強くしたのが中村刑部(なかむら・ぎょうぶ)という人物。秀家の夫人が前田家から嫁いで来た時の付き人であり、元々は前田家の人であった。才弁に長けるが、才腕にまかせて露骨な情実人事をするために、閥外の重臣団と対立が深まった。

④強力な力を握っていた長船が死去すると、反対派の宇喜多左京亮(うきた・さきょうのすけ)が筆頭家老になる。閣僚の人事はことごとく反長船派に代わり、例の中村刑部は退けられた。

⑤それを恨んでいた中村は、主人である宇喜多秀家に「長船さんが亡くなったのは、反長船派の奴らが毒を盛ったからだ。彼らは政権を奪いたかったに違いない」と偽の密告をした。

⑥秀家は中村の偽りを見抜いた。「二度とそんなことを言うな」と中村をさがらせたが、お家騒動は放置。

⑦反長船派「中村刑部が讒言したそうだな。この男を放置してはおけん。斬る」

 長船派「中村刑部を斬るというなら、我らにも覚悟がある。一戦をも辞さぬ」

 

かくして、玉造と備前島にある宇喜多家の大坂屋敷内では、いつ家臣同士の合戦があるかわからない状態になっていたという。

 

この騒動は三成・島左近に衝撃を与えた。合戦の前に、味方の大大名である宇喜多家が弱体化してもらっては困るからである。三成は、大谷吉継に調停を頼んだ。

 

が、ここで徳川四天王の一人、榊原康政にも調停を頼んだ。三成がである。

なぜ、わざわざ敵方の、それも重臣中の重臣に調停を頼んだのか。

理由は、「大谷吉継がうまく調停しても、後から家康が乗り出してきて邪魔をされてはいけない」と思ったからだ。それならば、大谷吉継のほかに、家康の直属大名を一人入れようと三成は考えたのだ。

 

榊原康政は喜んで承知した。この頃の家康は、本多正信井伊直政といった謀略の才のある者を重用しており、榊原康政のような野戦攻城向きの者をやや疎略にしているからであった。康政にそのことに不満を持っていた。

榊原康政「俺は戦場だけの男じゃない。政事だってできるんだぜ」

 

家康に無断で榊原康政は動き始めた。ここまでは石田三成の思惑通りであった。石田三成の人選はうまくいったといっていいだろう。

 

が、ついに調停はうまくいかず、榊原康政が宇喜多家屋敷に頻繁に出入りしている噂が家康の耳に入ってしまう。

 

この時家康は「小平太(榊原康政)が、他家の争いに没頭しているのは、おそらく欲にふけってのことだろう。よほど物がほしいとみえる」と言ったそうだ。

欲にふけるとは、他家の調停がうまくいった場合、調停されたほうはその労に報いるための謝礼をする習慣があり、それを康政は欲しがっている、と家康は言ったのだ。

 

家康は榊原康政をこの調停から退かせたいと思っているが、康政をよびつけて正式にその命令を下すと、事が大きくなり、世間が、家康の宇喜多家に対する気持ちを様々に想像することになる。それよりも、悪罵一つを放っておけば、それを康政が耳にし、自発的に手をひくだろうとみていた。(『関ケ原 中』宇喜多家騒動より引用)

 

この悪罵が康政の耳にきこえ、彼は江戸に戻ったという。

直接手を下さず、部下を動かす家康の力量、おそるべしである。

(ちなみに、家康自身は、榊原康政が欲に駆られて他家騒動に没頭しているとは少しも思っていなかったそうだ。家康と榊原康政は付き合いも長くどういう人物か知り抜いていたのだ。)

 

宇喜多家騒動は悪化し、主人秀家は独力ではまとめきれず、ついに家康の元に行き公式の調停を願い出た。家康はもちろんokした。

 

調停の結果、家康は宇喜多左京亮以下の重臣に「関東その他の地に蟄居」の処置を下した。本来であれば切腹させるのが筋であったが、家康は彼らに「関東・その他の地で謹慎しなさい」と言って、裏では扶持米を送っていたという。彼らはのちに徳川家の家臣になった。彼らの家は維新まで旗本として続いたというから驚きだ。

 

三成の謀略は敗れたと言っていい。そればかりか、味方の宇喜多家は弱体化し、徳川家の味方を増やす結果となっている。

また、西軍主力の宇喜多家の騒動が公式に調停されたことによって、世間に「東軍有利・西軍不利」という印象を与えてしまったのではないかと個人的に思う。

 

こうしてみると、関ケ原の前から、政治的な戦いがあったと見ることができる。

合戦だけが戦いではなく、むしろ「合戦が起こる前にどれだけ準備できるか」が勝ち負けを決める重要なファクターだと思うのだ。

家康が勝てたのは、合戦の前の準備ができていたからだといえる。

 

秀吉が強い理由は、「戦いの前に(勝つための)準備をして、準備ができてやっと戦うから強い」みたいな内容の事を読んだ事があるが、それがそのまま家康にも当てはまっている。

 

この宇喜多家騒動の三成vs家康だけでなく、他の場面でも家康は関ケ原の合戦で勝つための布石を打っていくのだが、そこが『関ケ原 中巻』の魅力だろう。